北ノ庄城跡の敷地内に柴田神社があります。柴田神社では見開き御朱印とお市の方御朱印帳等の頒布が行われています。結城秀康が福井城を築城するときに、北ノ庄城を思いっきり壊して利用しながら行われた為、北ノ庄城の全貌は失われてしまい、かすかにその遺構が残るのみとなっています。
柴田神社は、燃える北ノ庄城とともに自害・滅亡していった柴田勝家とその妻・お市の方を御祭神として祀る神社であり、北ノ庄城跡地の天守閣があったと思われる場所に建立されています。北ノ庄城址公園は、歴史のはかなさを感じる史跡です。
柴田神社の御朱印と御朱印帳/お守り
柴田神社の御朱印は見開きです。持参の御朱印帳に頂く場合は500円、書置きで頂く場合は600円です。
柴田神社の御朱印帳は、柴田勝家デザインとお市の方デザインと2種類あります。各1500円です。
▲五色御守は、月次祭(毎月24日)が執り行われるごとに月替わりで色が変わります。6~7月は黒字に黄色の神紋でした。
▲柴田神社の御朱印と御朱印帳等は、授与所で頂けます。北ノ庄城跡の敷地の中にあります。
柴田勝家の北ノ庄城跡
北の庄城址・柴田公園は、柴田勝家時代の北庄城本丸跡を城址公園として整備したものです。柴田が滅亡した後の徳川時代に、結城秀康が残っていた北庄城の跡を大きく壊しつつ福井城をつくったため、勝家時代の北庄城の詳細はよく分かりません。公園内にはかすかに残る石垣の一部が公開されています。
▲北庄城の石垣跡
北庄城は朝倉氏の時代に、元々一乗谷城の支城として築かれたものでした。織田信長が攻め入って一乗谷と共に落城、朝倉氏が滅亡します。その後、柴田勝家が北ノ庄城の城主となりました。この支城には勝山城、丸岡城、越前大野城があります。
北ノ庄城跡が福井城跡の近くにあることから、北ノ庄城は福井城の支城なのではないかと誤解されることがあるのですが、これはあやまりです。賤ヶ岳の戦いで秀吉に負け、北ノ庄城もろとも勝家は滅亡。
その後、結城秀康が越前を治めることになり、福井城を築きます。福井城の築城は、北ノ庄城の跡を大きく壊しながら進められたことにより、北ノ庄城の全貌は失われてしまったのでした。
北ノ庄城と福井城はこういった関係性にあります。
▲北ノ庄城の想像図。豪華な天守が描かれています。かつての天守があったと思われる位置は現在、柴田神社になっています。
現在の福井市街地は、福井城とその城下町から発展してきたものであり、福井に初めて都市を整備したのは、柴田勝家の北庄城築城が始まりなのです。そのため北の庄城址公園は、福井の歴史を物語るかけがえのない大切な史跡なのです。
▲北の庄城址資料館(無料)では休憩も出来るし、2階では北庄城の歴史を学ぶことも出来ます。お手洗いもあります。
夢路はかなく敗れた柴田勝家
織田信長の有力な家臣だった柴田勝家は、越前に北庄城を築きました。しかし、1583年4月21日の賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れてしまいました。同4月24日には、北庄城に一族を集めて酒会を開いた後、自ら火を放ち、妻・お市の方と一緒に自害しました。
夏の夜の夢路はかなき跡の名を 雲井にあげよ山ほととぎす
(夏の夜のように短くはかない私の名を、のちの世までも伝えておくれよ、山ほととぎす)
柴田勝家の辞世の句です。後述のお市の辞世の句を受けて詠まれたものです。
悲劇のヒロインお市の方
柴田勝家の奥さん・お市の方は戦国時代きっての美人、そして悲劇のヒロインとして知られる人物です。織田信長の妹として愛知県尾張国に生まれました。浅井長政に嫁いで三姉妹をもうけたのですが、夫は戦死。
その後、織田家に戻りましたが本能寺の変で兄・信長と死別。柴田勝家との再婚が決められ、越前へ移りました。しかし、柴田勝家は賤ヶ岳の戦いで秀吉に負け、お市は勝家と一緒に自害したのでした。
戦乱の荒れた世の中に、もてあそばれた人生。
さらぬだに打ちぬる程も夏の夜の 別れを誘う時鳥かな
(ほととぎすはあの世からの鳥というけれど、そうでなくても寝ているはずの夏の夜に、この世からの別れを告げているようだ)
お市の辞世の句です。悲しくなりますね。
▲三姉妹。お市の娘たち(茶々、初、江)
柴田神社はかつての北庄城天守跡に建つ
こういった歴史を持つ柴田勝家とお市の方を一緒に御祭神として祀っているのが、柴田神社です。江戸時代の資料によれば、北庄城の天守は福井城の鳩之御門南、百間堀につきでた枡形にあったと伝えられています。これに合致する場所が、現在の柴田神社のある場所なのです。
▲三姉妹を祀る境内社。
北の庄城址公園・柴田公園(柴田神社)の観光情報
- 休憩棟の開館時間:9時~18時
- アクセス:福井駅から徒歩8分
- 拝観料:無料
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