広島県の「平和記念資料館」の見学レポートです。
感受性が強めな方は閲覧注意です。戦争関連のお話なので、感受性が強い方や想像力が豊かな方が見ると、悲しい気持ちになる画像や説明文があります。
精神が元気な状態ではない方も、色々と引っ張られて影響を受ける可能性がありますので、ブラウザバックをお願いします。
目次
平和記念資料館に立ち寄る
平和記念資料館の入り口
現在は外国人観光客からの興味関心が高まり、行列してる日もしばしば
平和記念公園の中の端にあるこちらの資料館は「平和記念資料館」といいます。原爆のエグめの資料など容赦なく展示されていて、結構キツいです。修学旅行の中学生がたくさんいましたが、正直旅行でここに連れてくるのはやめた方が良いのでは…と思ってしまいました。
何となくで広島を散策していた自分は宮島の厳島神社など、ひと通りの定番観光スポットを見学し終えました。やっぱり広島といえば原爆ドームも見ないとなーと思い、軽はずみに平和記念公園へやって来ました。
「広島の有名観光スポットのひとつ」的な感じで、軽い気持ちで来ましたが、よく考えればここは原爆被害の中心地で重い歴史のある場所です。公園内を散策し、資料館へとやってきました。「こんなのあるんだー」と、どんな資料館なのかも知らないまま何となく入ってしまいました。
教科書で見た「きのこ雲」の写真
館内はそれなりに人がいるにも関わらず静寂を保っていた。カメラのシャッター音だけが響き渡る異様な空間
広島上空を覆ったきのこ雲の写真展示
資料館に入ってすぐに、きのこ雲の写真展示が現れます。今いるここの上空をこんなものが覆いました。いったい、どんな感じだったのでしょうか。全く想像できません。写真は、通路にも続きます。
きのこ雲の写真は、学校の教科書などで誰しも一度は見たことがある写真かと思います。しかし、この雲の下で実際に人々に何が起こっていたのか知りません。この資料館では、人々に何が起こっていたのか、どんな思いでいたのか、教科書の写真からは分からない「現実」を目の当たりにします。
原子爆弾のレプリカ。ウランを利用した原爆で「リトルボーイ」と呼ばれていた
原子爆弾とは、核分裂の連鎖反応で膨大なエネルギーが放出される原理を利用した兵器のことです。広島の原爆にはウランが使用されていました。
原爆に用いられた元素が違います。
広島に投下された原子爆弾はウランを用いたものでした。小さい爆弾だったので「リトルボーイ」と呼ばれました。
一方で、長崎に投下された原子爆弾はプルトニウムを用いています。まんまるなフォルムの爆弾だったことから「ファットマン」と呼ばれていました。
原爆と広島市の縮図
原爆と広島市の縮図です。広島市の頭上に投下された原爆の大きさ比率が分かる展示物です。考えるだけで怖いです。
原爆が爆発した瞬間、落下の中心地では3000~4000℃の高温になったといわれています。その付近にいた人間は、一瞬で炭になってしまったと考えられます(鉄が溶ける温度が約1500℃です)。
強烈に訴えかけてくる展示物
他にも種々の原爆に関する展示物があります。展示されているすべての物の背景に人間がいた、ということを想像すると精神がいかれそうになります。
展示物が訴えかけてくるものが強烈で、当時の人々が感じたであろう恐怖、容易に想像できる惨状が脳裏に浮かびます。
原爆投下時刻で止まった時計
午前8時15分を指したまま止まっている時計
とある時刻で止まってしまった時計です。昭和20年8月6日午前8時15分、原爆が投下された時刻です。
当時59歳だった二川謙吾さんは、爆心地から1640m離れた橋の上で被爆し、爆風で川に吹き飛ばされました。
右肩から背中、頭部に大火傷を負いましたが、郊外の親戚の家まで何とか避難しました。
家族の看病を受けながら8月22日に亡くなりました。この時計は長男の一夫さんから贈られたもので、謙吾さんが肌身離さず持ち歩いていました。
川に吹き飛ばされた衝撃のためでしょうか、時計のガラスはありません。
(展示横の案内板から引用)
黒こげになった中学生のお弁当箱
穴が開き、中身が真っ黒になったお弁当箱
建物疎開に参加していた中学生のお弁当です。お弁当の中身は、麦と大豆の混ぜご飯、じゃがいもの油炒めなどでしたが、判別できないほど真っ黒になっています。
お弁当箱を発見したのは、持ち主の中学生の母親でした。母親はこのお弁当箱を見つけ、黒焦げになっている遺体が自分の子どもの亡骸であることを確認しました。
当時広島では家屋が密集していたため、一軒が燃えると次々に燃え移ってしまっていました。あえて建物を取り壊して間引くことで延焼を防ごうとしたのが建物疎開です。取り壊しは人の手で行っていました。体力のある大人の男性は戦地へ行っていたので、建物疎開は中学生小学生の子どもや病気で戦えない人などの市民が行いました。
お弁当箱の中学生はまさに上記の建物疎開の作業に駆り出され、屋外で取り壊しを手伝っている最中に被爆し、亡くなりました。
母親のシゲコさんは戻ってこない滋さんを捜して市内を歩き回り、被爆から3日後の早朝、うずくまるような姿で亡くなっている子どもを見つけました。
腹の下に抱きかかえるようにして持っていた弁当箱に刻まれた「折免」の文字で、その焼け焦げた遺体を滋さんと確認することができました。
弁当箱には穴があき、中身も焦げて真っ黒になっていました。黒焦げの弁当箱には、大豆や麦の混ざったごはんと根菜の妙め物が詰められていました。
自ら収穫した作物で母親が作り、あの日食べるのを楽しみに作業に持って行ったお弁当でした。
(展示説明文より引用)
うわごとのように歌いながら亡くなった中学生の水筒
当時12歳だった北林哲夫さんは、爆心地から600m離れた場所で建物疎開作業中に被爆しました。
重傷を負いながらも自宅近くまで戻ったところを、両親が見つけ、爆風で壊れた自宅で看護を受けました。
顔は大火傷でゴムマリのようにはれ上がり、目も鼻も区別がつかない状態ながら、避難した時の様子を話すなど意識はかなりはっきりしていました。
翌8月7日の夕方突然意識をなくし、うわごとのように歌を歌いながら亡くなりました。
この水筒は、哲夫さんが被爆の時に持っていたものです。
(展示説明文より引用)
伸ちゃんの三輪車
三輪車に乗っていた子はその日のうちに亡くなりました
当時3歳だった鉄谷伸一ちゃんは、爆心地から1,500m離れた自宅の庭で、三輪車に乗って遊んでいた時に被爆しました。原爆の熱線のためにひどい火傷を負い、その日の夜亡くなりました。
父親の信男さんは、3歳の子どもを一人でお墓に入れては寂しいだろうと思い、大好きだった三輪車と一緒に、自宅の裏庭に伸一ちゃんの亡骸を埋めました。伸一ちゃんの頭には、鉄かぶとをかぶせました。
被爆から40年後の夏、庭から掘り出して、遺骨はお墓に納めました。
伸一ちゃんとともに40年間裏庭に眠っていたこの三輪車と鉄かぶとは、被爆からの長い年月を語るかのように、錆びて今にも壊れそうです。
(展示説明文より引用)
人影の石
階段にうっすらと黒いシミのようなものが見える。人が座っていた跡
この石は、爆心地から260m離れた住友銀行広島支店の入り口の階段の一部です。強烈な熱線のため、石段の表面は白っぽく変化し、人が腰掛けていたと思われる中央の部分だけが影のように黒くなって残りました。
石段に座って、開店を待っていた人は、原爆の熱線を正面から受け、逃げることもできないまま、その場で亡くなったと考えられます。
建物は戦後も、一時期使用されていましたが、1971年の建て替えの際に、この部分が切り取られ、ここに移設されました。
(展示説明文より引用)
エピソードと一緒に展示物を見ると、より鮮明に、この悲惨な出来事が本当に現実のものであったことを思い知らされます。
気軽に来るべきではなかった…と後悔しつつも、さまざまな展示からもはや目が離せなくなっていました。原爆の威力を示す展示物は、他にもたくさんあります。
一瞬で溶けて全体がくっついたガラス瓶の塊
高熱でひしゃげてしまった瓶
ボロボロになった炊飯器と真っ黒のお米
リアル黒い雨の展示
爆発で巻き上げられた塵や煤が空気中の水滴と混じり、それが黒い雲となり、その雲から黒い雨が降りました。油まじりのようなぬるぬるした雨だったそうです。放射性物質を多量に含んだ黒い雨は、爆発後の広島市内に、夕立ちのように土砂降りで降り注ぎました。
原爆投下直後の市民たちは、この黒い雨を空に口を開けて必死に飲みました。原爆の強烈な熱風で、体中の水分が一瞬で蒸発してしまい、水を求めていたからです。
黒い雨といえば、井伏鱒二さんの本が有名です。深めて考えたい方は本も読んでみてください。
原爆後遺症、佐々木禎子さんのカルテ
入院中のカルテ
佐々木貞子さんという方は、平和記念公園内の「原爆の子の像」のモデルとなった人物です。2歳で被爆し当初は無傷でしたが、11歳で白血病を発症し、12歳で亡くなりました。原爆は、子どもに対しても容赦なく牙をむきます。
佐々木さんは入院中、薬の包み紙で千羽鶴を折っていました。千羽折れば願いが叶うと信じ、病気が治ることを祈りながら折り続けたそうです。
平和記念公園内にある「原爆の子の像」大きな折り鶴を両手で支える
佐々木さんに関連する展示物は他にもたくさんあって、闘病する様子の佐々木さん本人の写真も展示されていました。撮影OKのスペースではありましたが撮る気になれず、ご紹介できる写真はありません。
オバマ大統領の折り鶴
公園内が一望できます。
公園内が一望できる。中央に「原爆死没者慰霊碑」その奥には「原爆ドーム」が見える
平和記念資料館の記念スタンプ(右2つ)
自分は戦争世代ではありませんし、戦争で誰かが亡くなってしまった経験もしていませんが、展示物やその説明文に精神リソースが削れてしまいました。終始なぜか半泣き状態で、それなのに見るのをやめられず、結局最後までしっかりと見学してしまいました。
来館者は、日本人よりも外国人観光客の方が多かったです。博物館や資料館は、何か大きなイベントや期間限定の企画展などが開催されていない限りは、お客さんがまばらなことが多い印象だったのですが、平和記念資料館は平日昼間から混んでいました。これほど混みあった資料館は初めてです。
多くのさまざまな国の方々がいたのに館内は静かで、見学している人たちのカメラのシャッター音だけがひたすら響いていました。外国人の方を含めて、こんなに人が大勢集まっているのにあまりに静か過ぎで異様な空間でした。
平和記念資料館の営業情報
営業時間 | 8:30~17:00(変動あり) |
住所 | 広島県広島市中区中島町1-2 |
料金 | 大人200円 高校生100円 中学生以下無料 |
アクセス | 広電「中電前」もしくは「原爆ドーム前」下車すぐ |
私はもうそろそろで学校を卒業するんですけど、最後の授業で世界遺産について調べています。
そして、私が調べる世界遺産が 原爆ドーム で、最初は、誰が建てたのか、とか、何故世界遺産に登録されたのか、など、あまりグロい内容のない物について調べていたんですけど、 家で調べて書く ってなって、調べていたんです、そしたら、 原爆ドーム 展示物 ってでてきて、軽くポチッたんです。
そしたら、 伸ちゃんの三輪車 の写真と、 中学生のお弁当 の写真が出てきて、、私のおじいちゃんもう亡くなってるんですけど、おじいちゃん被爆した人の1人らしくて…亡くなる前に戦争の時のお話とかよく聞いていて、あまり怖くはなかったのですが、その、大戦中の人達の事を考えていると、心が痛みました…
そして、この記事を書いてくれた方の気持ちも分かりました…
ハイ。
ということで、こちらの記事を参考に書かせていただきますね❗