原爆ドームの歴史をなるべくわかりやすくなるよう心掛けて、まとめました。現地にも行ってきたので、写真とともにご紹介します。
日本人として、外国人からの関心も高まっている今だからこそ「原爆ドームは聞いたことはあるけど、よく知らない…」で済ませないよう、一緒に歴史を学びましょう。
原爆ドームの歴史的背景
原爆ドームの建物は、もともと「広島県物産陳列館」でした。広島県の特産品を販売したり、博覧会をしたり、催し物が開催される施設でした。
建物の果たす役割や意味は現在と異なりますが、当時もここは観光名所でした。
レンガ造りの壁が残っており、洋風でモダンな建築物であったことが見て取れます。文化的な役割を持った施設で、景観にこだわった見た目だったのでしょう。
1945年8月6日午前8時15分、原爆の爆風を浴び、このような姿になりました。
被爆当時の姿(原爆死没者追悼平和祈念館で展示されていた写真)
原爆ドームが世界遺産になるまで
当初、原爆ドームは倒壊の恐れもある危険な状態だったこと、戦争の悲惨な記憶を呼び起こすものであることから、取り壊しを求める意見もありました。
しかし、復興の中で徐々に広島の街がきれいになっていく中で、歴史的な遺構として保存を求める声が高まりました。
広島市議会が提出した原爆ドームを世界遺産へ登録することを求める意見書からはじまり、広島市民による署名活動が広がりました。
広島市民の思いを込めた活動は、文化庁を動かします。1994年に、文化庁は世界遺産に原爆ドームを推薦することを検討し始めます。
1996年12月、原爆ドームは世界遺産登録を果たしました。
現在では日本各地、そして世界各国からも観光に訪れる有名な場所のひとつとして、広島のシンボルとなりました。原爆ドーム周辺では、世界中の様々な国籍の方々が、原爆ドームをカメラに収めようとしている姿を見ることができます。
爆心地にも関わらず原爆ドームはなぜ残ったのか
周りの建物が倒壊する中、なぜ爆心地にもかかわらず、原爆ドームだけ残ったのでしょうか。
それは、原爆がこの建物のほぼ真上(正確には原爆ドームから南東へ160m付近)の上空で爆発したからです。爆風が少しでも角度がついて横から吹くと、その威力で壁がなぎ倒されて、建物は倒壊します。
しかし、真上で爆発したので、爆風は上から垂直に吹きました。そのためドームの屋根は吹き飛びましたが、レンガ造りで厚く作られた壁はそのまま残り、倒壊はしませんでした。
広島に投下された原子爆弾はウランを用いたもので、比較的小さな見た目をしていました。そのため、爆弾は「リトルボーイ」と呼ばれました。
リトルボーイ(平和記念資料館にて展示)
これに対して長崎の原爆はプルトニウムを用い、見た目がまんまるのフォルムだったので「ファットマン」と呼ばれました。
原爆投下目標にされた相生橋
原爆ドームの目の前の川に架かっているT字の橋を「相生橋」といいます。2つの川が合流する地点に架かっているので、特徴的な形をしています。
目立つ地形だったため、土地勘のないアメリカ兵にとって分かりやすい投下目標地点として、この場所が選ばれました。
原爆ドームの中にいた人はどうなったのか
当時、広島県産業奨励館では内務省職員が勤務中でした。建物は鉄骨や壁が残ったものの、全焼しています。中にいた人は全員即死しました。
原爆ドームの基本情報
- 見学無料(外観のみ、内部は入れません)
- 原爆ドーム電停前すぐ
- 駐車場は周辺にいくつか(相場300~600円)
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